宇佐神宮に祀られる神は、一之御殿が応神天皇(八幡神)、ニ之御殿が比売大神、三之御殿が神功皇后(応神天皇の母)となっている。御殿の順から言うと、応神天皇が主祭神となるが、御殿の造りは二之御殿が一番立派、祭壇もこの前に置かれている。ふつう主祭神が中央に鎮座し、配神が左右に祀られるが、宇佐神宮は異なる。しかも、比売大神は天皇や皇后に比べたら地方の神様! さて、なんで?
種々の仮設によりこれらの疑問とそれらにこたえてくれるのが、左記に紹介する竹折勉著の「豊の国宇佐嶋の謎を解く」である。
宇佐市民図書館にあるこの本の最終頁に張られている「新聞書評?」にこのように記されている。
「古事記や日本書紀に登場し平安末期には九州約3分の1を領地とした宇佐。著者は本書で宇佐神宮ニ之殿ヒメ大神は天皇家の祖霊であったと言う仮説を倭女王ヒミコの御霊と言う実在した人物に結びつけて発展させ、豊の国宇佐嶋の謎を解いていく。宇佐の国づくりのあけぼのを探索、その背景から、宇佐豪族の先祖の「血統・祭祀・業績」が時の権力藤原氏の権勢拡大に利用されたのでは?と、「悠久の女神の謎」などで展開する。」
宇佐神宮二之殿に次ぐ竹折氏の疑問は、
・神武東征神話、日向を船で出発した神武天皇が初めて寄港した地はなぜ宇佐だったのか?
・古事記では、なにゆえ宇佐における宮殿づくりと饗応を取り上げたのか?
・日本書紀で、「その土地の人を莬狭國造の祖とあらため」、また「中臣氏の遠祖天種子命に莬狭津媛を妻として賜わる」をなぜ追記したのか?
へと展開していく。
著者は、
天皇家の祖神はアマテラス大神、アマテラス以前の祖神は宇佐にまつられていた。
(人皇第一神武天皇の御母「玉依姫」の霊が宇佐のヒメ大神)
(伊勢と宇佐が「国家の宗廟」と言われる理由はここにある)
→ゆえに、最初の寄港地は宇佐でなくてはならなかった。
宮殿づくりと饗応は→天皇が即位後におこなう大嘗祭の儀礼
莬狭津媛の成婚→天皇家、中臣氏(藤原家)と宇佐氏の結びつきの強調
で、こららはあきらかに日本開国史をつくるための編集者の作為!としている。
また、著者は
古事記では宇沙だが、日本書紀は菟狭となっているのは、🐇は月で米・餅をつく。つまり、農耕豊穣(菟)な盆地(狭)を現わしたかったのでは?とするところが面白い。ゆえに、豊國となったのか(笑)
尚、著者は記紀編集者の背後にあったのは時の権力者「藤原不比等」であり、菟狭の字は不比等が考え出したものとしている。