左記は私が体験入門中の「豊の国宇佐市塾」発刊第一号「宇佐海軍航空隊Ⅰ」の序文である。何故かこの序文が好きで、わが郷里を多少自慢げに語るに相応しい名文であると感じ入っている。
ある時これをSNSで紹介したところ、早々ある知人より、筑紫の国菟狭とあるがこれは豊の国菟狭の誤りであるとの指摘があった。この序文は、単に日本書紀に則ってこう記したのであり、決して現在で言う筑紫(福岡)の菟狭ではないと理解しているのだが、先日「宇佐おもしろ文化講座」で神武東征に関する講座があり、この「筑紫」について質問してみた。いつも大好評で、この講座で講師を勤める小倉正五氏の回答は、「神武東征神話は紀元前660年まえすなわち縄文時代に位置する神話であり、この頃はまだ国の形はなく、九州が「筑紫の島」と言われていたことから、「九州という島の菟狭」の意味ではないか!であった。記紀神話でのアマテラス誕生の地、その孫のニニギ天孫降臨の地は、「筑紫の日向」と記されており、同様の意味か?
菟狭、宇佐は社、神殿の意味で、場所をしめすものではない!との説もあるようだ!
「古事記」
日向より御幸して筑紫に到る。豊前の宇沙之時、其土人名は宇沙都比古宇沙都比売。二人は 足一騰宮 を作て大御饗を献り、 その地より 紫之岡田宮に遷す。
「日本書紀」
甲寅年冬十月朔辛酉。 天皇親 (みずから) 諸皇子を帥 (ひきい) て東を征 (うち) たまう。 筑紫の国菟狭に至る時、菟狭国造0祖有り、号(なづけ) て菟狭津彦・菟狭媛という。菟狭の川上に一柱騰を造りて饗焉(みあえ)奉る。 是時に勅(みことのり) により、菟狭津媛を以て侍臣天種子命に賜せたまう。 天種子命は是、 中臣氏之遠祖也
*ネット上のmiyako-museum.jpのPDF資料(福岡県みやこ町博物館)によると、
豊前国の誕生 「筑紫嶋四國から筑紫七國へ」・・・で
「古事記」神代巻の大八島誕生の記述に「・・・つぎに筑紫嶋を生みき。この嶋もまた、身一つにて面四つ有り」として筑紫国・豊国・肥国・熊曾国をあげている。九州全体を筑紫嶋と呼び、その中を4つの国に分けているが、これは大化改新以前での九州の地域区分であった。九州と言う呼び名のもとになる九国がすべて誕生するのは奈良時代になってからであり、その前の段階では七国であった。すなわち先の四国のうち筑紫国・豊国・肥国がそれぞれ前後に分けられて律令政治に向けての新しい国割りが行われ、また熊曾国と言われたところから日向国が生まれて「筑紫七国」が成立した。
筑紫七国の初見
696年(持統十)肥後国
698年(文武二)筑前・豊後・日向国
702年 (大宝二) 豊前国
707年(慶雲四) 筑後国
740年(天平十二) 肥後国
とある。