古事記と日本書紀 (不安の時代の皇 解説部)
古事記 712年太安万侶が編纂し元明天皇に献上された最古の歴史書 上中下三巻で構成され天地開闢から三十三代の推古天皇まで
日本書紀 奈良時代720年に完成した最古の正史 神代から41代持統天皇まで
神代七代 国常立尊~伊弉諾・伊弉冉尊
日本神話で、天地開闢(かいびゃく)の初めに現れた7代の天神。日本書紀では、
1国常立尊(くにのとこたちのみこと)、
2国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、
3豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、
(以下は対偶神。二神で1代と数える)
4埿土煑尊(ういじにのみこと)・沙土煑尊(すいじにのみこと)、
5大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、
6面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)、
7伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の7代。
地神五代 天照大神~鸕鷀草葺不合尊
神武天皇以前に日本を治めた5柱の神の時代。すなわち、
1天照大神 伊弉諾尊の左目から生まれる
2天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
3瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 日向(現・宮崎県)の高千穂の峰に降臨
4彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 山幸彦
●神武天皇 53
天皇の地位は神代から現代まで二千数百年にわたって唯ひとつの血統によって一二六代受け継がれています。 皇位の歴史が男系・父系による継承であるために、父を一系で辿ると、初代天皇である神武天皇に行き着きます。
日本書紀の神話部分によれば、天照大神の孫(天孫)である瓊瓊杵尊は、外祖父(母方の祖父)に当たる高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の発意により地上(葦原中国:あしはらのなかつくに)の支配を託されて、日向(現・宮崎県)の高千穂の峰に降臨しました。
それから三代経たのちに生まれたのが神武天皇(神日本磐余彦尊)です。神武天皇には神話説と、少なくとも実質的には存在したという説があります。
神武天皇は、瓊瓊杵尊の孫である彦波激武鶴鷲草葺不合尊と玉依姫の第四子として、筑紫(九州)の日向で誕生しました。*筑紫:古代での九州の総称
神武天皇は、四五歳のときに三人の兄や子を率いて東征を開始。兄を戦いで失うなど数々の試練を乗り越えて、日向から宇佐、安芸国、吉備国、浪花国、河内国、紀伊の国、そして内つ国(=大和国)を六年の月日をかけて平定し、畝傍山の東南の橿原の地に都をひらきました。
そこで事代主神(大物主神おおものぬしのかみ)の娘の媛踏繭五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことを正妃とし、翌年(辛酉年)春正月に初代天皇として即位したと日本書紀は記しています。 即位四年、天下を平定し終えたことから鳥見山中に皇祖天神を祀りました。さらに即位三一年には巡幸して丘に登って国を一望し、「なんと素晴らしい国を得たことだ」と感嘆します。これは「国見」といわれ、万民に目を向ける為政者としての姿がありました。皇祖の祭祀を行うことによって国家国民の安寧を祈るという現代の天皇陛下に受け継がれる祭祀王的な性格の原点が浮かび上がります。
媛蹈鞴五十鈴媛との間に神八井耳命、神淳名川耳尊(のちの綏靖天皇)を得て、即位七六年に一二七歳で崩御されたと日本書紀は記しています。
●伊奘諾(伊邪那岐)と伊弉冉(伊邪那美) 54
天地開闢(かいびゃく)の最初に国(こく)常(じょう)立(りつ)尊(たける)が現れて以降、国常立尊も含めて一一柱七代の神が次々と誕生していきました(神世七代)。
七代目の神である伊奘諾(いざなぎ)尊(たける)(伊邪那岐命)と伊奘冉(いざなみ)尊(伊邪那美命)は夫婦神であ り、彼らが日本の国土や海、川、山、そして草木を生みました (国生み)。
主に古事記をもとにすれば、その後、夫婦神は多くの神々をお生みになり、最後に火の神である火之迦具土神ひのかぐつちのかみを生んだときに、伊邪那美命は体を焼かれて亡くなってし まいます (神生み)。
伊邪那岐命は亡き妻を忘れられず、伊邪那美命を取り戻しに死者の住む黄泉国よみのくにまで迎えにいきます。でもそこで見たのは、蛆(うじ)がたかり、体中に八種の雷神が座っている 妻の姿でした。あまりの恐ろしさに、伊邪那岐命は逃げ出してしまいました。自分の姿を見られた伊邪那美命は、髪を振り乱し、黄泉国の軍勢を繰り出して襲ってきます。 伊邪那岐命は呪力がある桃の実を投げつけて、かろうじて逃げ帰ります。
黄泉国の入口まで逃げた伊邪那岐命は、大きな岩でその入口をふさいでしまいまし た。伊邪那美命は自分の姿を見られたことを恨み、「あなたの国の人を一日に一〇〇○人殺してやる」と言いました。これに対し伊邪那岐命は「ならば一日に一五〇〇人を生もう」と告げました。以来、一日に多くの人が死に、それより多くの人が生まれるようになったといわれています。
無事に生還した伊邪那岐命は、黄泉国の穢(けが)れを日向の阿波(あは)岐(き)の原で清めました。 すると、さまざまな神が生まれ、最後に左眼から天照大神、右眼から月読命(つくよみのみこと)、鼻から須佐之男命(素戔嗚尊)の三貴神が誕生しました。 そこで伊邪那岐命は、天照大神には高天原を、月読命には夜之食国(よるのおすくに)を、須佐之男命には海原を治めるように任命します。 神の仕事をすべて終えられた伊邪那岐命は、淡海(近江)の多賀に宮を造って、静かにお隠れになりました。伊耶那岐命は神武天皇の七代前の先祖になります。
●天照大神 56
日本書紀において、伊奘諾尊と伊弉冉尊の子である大日曇貴と同一神とされるのが 天照大神です。
古事記では伊邪那美命(伊奘冉尊)の死後に伊邪那岐命(伊奘諾尊)の左眼から生まれているので伊邪那美は母とはいえないこと、また名前は「天照大御神」と表記されていることなどの違いがあります。
「天を照らす」の名が示すように太陽をあらわす神で、高天原を統べる主宰神であり、 皇祖神でもあります。
その高天原に、弟神・素戔嗚尊がやってきたのを、天照大神は国を奪うためだと勘違いして怒り心頭、それに対して素戔嗚尊は誤解を解くために誓約(一種の占い)を提案します。自分が男神を生んだら清い心だとして、天照大神のみずら (頭髪)と腕に巻かれていた八坂瓊之五百箇御統(勾玉や管玉などの飾り)から五柱の男神を生み、身の潔白を証明しました。
●橿原宮 56
日本書紀によれば、天照大神の五世孫つつぎのみことである神武天皇は、日向から六年をかけて東征を行い、数々の難敵を倒して、ついに内つ国(内州/大和国)を平定します。
そして、畝傍山(うねびやま)の東南・橿原(かしはら)の地に宮殿と都をつくり、日本国を建国しました。
庚申年の九月には事代主神ことしろぬしのかみの娘の媛踏繭五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこ)を正妃とし、その翌年にあたると辛酉年春正月 庚辰朔しんゆうのとしはるしょうがつのこうしんのついたち (辛酉かのととりの年春一月一日)、神武天皇は橿原宮において初代の天皇として即位しました。
神武天皇がなぜ橿原の地を都として選んだのかについては、「思うに国の真中である」と述べておられます。宮殿があったとされる地に、明治二三(一八九〇)年に創建されたのが現在の橿原神宮で、主祭神は神武天皇と媛踏五十鈴媛命です。