宇佐風土記の丘の「あの~木なんの木?」

 実家から車で15,6分の距離にある県立歴史博物館では、現在「三角縁神獣鏡が見つかった赤塚古墳」の特別展が行われている。これに際し福永伸哉大阪大学教授による講演会も行われたが、残念ながらコロナ禍人数制限により受講することが出来なかった。ならばと、古墳の測量に関するフィールドワークが行われ、そちらに参加。測量機器の説明と実機による測量体験だったが、

・測量機器やドローンのほとんどが海外製(MaidInCHINAが主😢)

・質問というより自己の知識自慢

・オバはん連中の、常識と礼儀をわきまえない振る舞い

が印象に残るもので、むしろ会場となった風土記の丘で見つけたあの〜木なんの木?の方が気になった。

案内看板より

 太古の昔、宇佐は九州屈指の聖域 !

宇佐平野を南から北へ流れる駅館川(やっかんがわ) 東岸の台地上に、 3世紀後半から6世紀に造られた前方後円墳6基を含む、数多くの古墳からなる川部・高森古墳群があります。 宇佐風土記の丘は、この川部・高森古墳群を、未来に継承していくために整備された史跡公園です。

 

「この場所は、 宇佐平野を見渡す丘にあり、長い間宇佐地域の有力者たちが眠る聖域でした。とくに、今からおよそ1700年前(3世紀後半) に造られた赤塚古墳は、前方後円墳であることから、宇佐地域が九州で最も早く、ヤマト政権との結びつきを深めたことを示しています。 その後、6世紀中頃の鶴見古墳まで、6基の前方後円墳が造られています。 古代の日本では、地域の有力者が「国造(くにのみやつこ)」に任命されました。「古事記」には、宇佐国造として「宇沙都比古・宇沙都比売(うさつひこ・うさつひめ)」がみえます。 宇佐国造が、川部・高森古墳群に葬られた可能性もあり、宇佐地域が、 ヤマト政権にとって重要な場所であったことを示しています。 だからこそ78世紀に、仏教文化や八幡神の文化が宇佐の地において盛んになったのです。