今年はじめての宇佐おもしろ歴史ピクニックは、「双葉山と二葉山神社」をテーマに、宇佐が生んだ不世出の大横綱双葉山の四股名と二葉山神社の関りを探った。
冒頭、小倉講師より、
・穐吉定次少年(双葉山)が通ったのは現在の宇佐市立天津小学校であり、その通学路の途中にある二葉山神社は少年達の遊び場になっていたはず!
・実家は海運業、強い足腰は船作業で鍛えられたといわれる横綱なのに、なぜ双葉海ではなく、双葉山なのか?
等、今回のテーマを取り上げた理由が語られたが、結論は、まったく関係なし!だった。
「双葉山定次相撲求道録(口述筆記されたもの)」にある「栴檀は双葉より芳し」が、現時点では最も有力な四股名の由来との事だった。
「双葉山定次相撲求道録」よりの抜粋
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父は体こそ小さくても相撲が好きで、村相撲などにもよく出場したものです。当時 郷土出身の小野川(大分出身後の大関豊国)という力士があり、日の出の勢いで ありました。 家の借財は弁済の余力がないため父は「家もこんな有様ではしかたが ない。お前もひとつ、 相撲にならんか」 といって、わたしに誘いをかけました。
そのころたまたま近村のお祭りに、青少年たちの奉納相撲がもよおされて、 わた しも参加することになりました。 この宮相撲での活躍が 『大分新聞』に「天津に怪童あり!」と報じられました。 県の警察部長であった双川喜一氏がこの記事に注目され、後に立浪親方に紹介されました。
昭和2年3月の大阪場所は、わたしの生涯にとって祈念すべき場所です。この場所で、わたしは体格検査を受けて合格し、 はじめて前相撲をつとめました。 双川さんから、この「双葉山」という四股名つけてもらいました。
「栴檀は双葉より芳し」からとられたものと思います。
二葉山神社由緒(WIKIPEDIAより)
和銅3年(710年)の創祀という[1]。天慶元年(938年)に神託により別雷神を加え祀ったと伝えられ、また上敷田(現宇佐市上敷田)に住む岩田長者という長者の屋敷裏に落雷があり、その雷神が赤い玉と化して八竜の山に飛び去ったが為に村民が「八大龍王宮」と称えて祀るようになったもので、以後当地では赤い鶏を飼うこ事は禁忌とされたとも伝える[2]。寛永8年(1631年)に社殿を建立した。明治5年(1872年)に村社に列し、同44年(1911年)9月10日に大字南敷田字樋田の天穂日命と菅原神を祀る神社(境内社に蛭子命を祀っていた)を、大正2年(1913年)4月20日に大字中敷田字潤尾の応神天皇、神功皇后、武内大臣を祀る八幡宮と、大字上敷田字金剛寺の崇徳天皇を祀る金比羅宮(境内社に倉稲魂命と火産霊命を祀っていた)を合祀した。
*現皇學館大学の源流になる神宮皇學館の創設に尽力、教頭を勤めた幕末・明治の国学者敷田年治は、二葉山神社神主宮本兼継の次男。
付録
二葉山神社からの帰り、大分を代表する山である由布と鶴見がくっきり!撮った写真に、青のソニックのオマケまで。さっそくFB投稿。