書より抜粋:
コロナ禍食及びそれを支える店を通じ日本人を探る
私たちは何処で生き、何のために働き、何を貴び、何を信じるのか、子供に何を語り、友人や朋輩と何を分かつのか――。
これらは全て、「日本人とは何か」という大きな問いへとつながっている。 生き方にしろ、生きがいにしろ、簡単に答えの出るものではなく、誰にでもあてはまるような考えはない。しかし、色々な価値観や方針の底に流れている大きなものがあって、その流れが一人一人の個性や人格を支えている。この底に流れているものが、「日本人である」 ということだと、私は考える。
日本人が日本人であるという意識を失いつつあることは年号が昭和から平成に変わった頃、 私がものを書き始めた頃から感じていて、私にとって「日本人とは何か」はメインテーマで あり、これまでずっと考え続け、書き続けてきた。それでもなお。新型コロナウイルスの感 染拡大は改めてこの問題を私に突きつけたのである。
例えば、本居宣長ら江戸時代の国学者たちは、中国の「唐意」と日本の「大和心」を対比させた。そこで彼らが言おうとしたのは、朱子学的な理念と日本的な心の対比であった。
「からごころ」は理屈や理論を立てて、生身の人間の感情を律していくことである。
一方「やまとごころ」は、いい服を着たいとか、おいしい物を食べたいとか、苦しいことは嫌だ、といった人間の当然の心情を前提とし、認めた上で人が生きるということを考えていく。
現世を肯定した上で、生身の人間として生きていく道は何なのかを考えることが、国学の
開いた考え方である。
ここに日本人の価値観が明確に現れている。
日本人は彼方にあるもの、彼岸に価値を置くのではなく、自分たちが一緒に暮らしていく、 今生きている人とのつながりを大切にし、その中で生きている価値を認めてきた。それを暮らしの中で育み、制度や宗教、文化として実現してきたのである。
日本という国がこれまで続いてきた要因は、普通の町や村に住んでいる人たちの、その普 通の暮らしが文化であったということにある。
*生活(日常)の破壊が山上容疑者を生んだ
*アンドレ・マルローは、かって「現代史の十字路のすべてにマルローは立っていた」と言われていた。石原慎太郎にも同じことが言える!と著者は言っている。
出光美術館で昭和53年に「アンドレ・マルローと永遠の日本」をテーマに特別展が行われた。
店主とアンドレマルローとの対談