江戸期豊州御領(島原藩飛び地)から島原への道

当時、島原に行くには肥後廻りと肥前廻りの二通りの道があった。1694年(元禄7年)5月に黒田藩儒学者貝原益軒が肥前廻り(椎田から京都郡新町を経て七曲峠を通リ香春へ)の道を歩いている。また、哲学者三浦梅園もまたこの道を通リ長崎へ出かけており、日記に「雨降るといえども、昨日雨なきにより、河水へりたらんと旅宿を発し、金屋の渡し白髪長くはやしたる男にあう、名を問えば天満屋忠兵衛という・・・高田より中津まで七里」と書いている。