「名言との対話」6月27日。高山彦九郎
•「朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」 ◦ 

高山彦九郎は上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)で生まれた、江戸時代中頃の勤王思想家で、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与え、明治維新を導いた人物。寛政5年(1793)6月27日筑後国(現福岡県)久留米の森嘉膳(嘉善)宅で自刃し、47歳(数え)の生涯を閉じた。
◦細井平洲を師と仰ぐ高山彦九郎は、足利幕府以来の武断政治を仮の姿とし、朝廷による文治政治が日本本来の政治の姿であるとの確信を持っていた。そのことは徳川幕府に対する疑念となっており、反幕の思想であった。この考え方は日本国内に深く浸透し「尊王攘夷」という思想を産んだ。吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・中岡慎太郎・西郷隆盛を始めとする幕末の志士達に強い影響を与え続けた。
◦彦九郎は、自らの天命を背負って、日本中の同学の徒を訪ねる旅に暮らす。蝦夷地に入ろうとしたが果たせなかったが(司馬遼太郎は松前に渡ったとしている)、北は津軽から、南は薩摩まで恐るべき健脚をもってくまなく歩き続けている。この旅は風呂敷の中に筆立て、硯、手ぬぐい、半日の食料などが入っているだけであった。
◦「赤城山 真白に積もる 雪なれば 我が故郷ぞ 寒からめやも」
◦土地の歴史。そこで善行をした人の魂を認め、褒め、それを書き残す。その土地の優れた人を掘り起こす。親の敵を討った人、農業のやり方を発明した人、洪水を防ごうと工事をした人。神社の歴史。高山彦九郎は質問し、その土地のよいところを引き出す人だった。だから誰もが彼を信頼する。それが同志のネットワークとなって、影響を与えていった。
◦以前訪ねた高山彦九郎記念館では「高山彦九郎 五千人の交遊録」という企画展をやっており、公家、儒学者、無名の人々などその交遊の広さに驚いた。高山は今で言うネットワーカーだったのだ。ネットワークをつくり、つなげながら、自らの思想を練り上げ、日本の中に伝播していった人である。知的武者修行でもある。その志は、我身を捨てて、国を守ろうとしたこの言葉に表れている。

啓一を追いかける(久恒啓一BLOGより)

名言との対話」6月26日。山田方谷。 「友に求めて足らざれば天下に求む。天下に求めて足らざれば古人に求めよ」

山田方谷(1805ー1877年)は備中松山藩の藩校有終館の会頭・学頭。藩主板倉勝静の教育係。名君と賢臣の名コンビ。元締役・吟味役。暗殺の危険も。板倉は幕末最後の老中首座。8年間で10万両の借金財政から10万両の蓄財へ転換。46歳から藩政改革を断行。質素倹約・借財整理・藩札整理・産業振興・民政刷新・文武奨励。大政奉還の原文を書いたと言われる。明治政府の要職を依頼されるが固辞。池田光政の閑谷学校という日本初の庶民の学校にも出講。6月26日、逝く。

「事の外に立ちて、事の内に屈せず」

「君子は義を明らかにして利を計らず」

学ぶべき師や切磋琢磨する友は、身の回り、次に現在世界、そして歴史の偉人と広げていこう。


啓一を追いかける(久恒啓一BLOGより)

「名言との対話」6月25日。宮城道雄。
•「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる」 ◦宮城道雄(1894年(明治27年)4月7日 - 1956年(昭和31年)6月25日。)箏曲演奏家、作曲家。神戸出身。失明後、八歳で二世中島検校に入門。大正六年(一九一七)上京。尺八の吉田晴風らとともに「新日本音楽」運動を起こす。洋楽を取り入れた新傾向の作品を作り、演奏技巧を拡大。レコードや放送に活躍した。代表曲「水の変態」「春の海」「さくら変奏曲」など。
◦「私は明けても暮れても自分の心を磨き、わざを高めることにすべてを向けてまいりました。生活そのものが芸でなければならないという信念で生きてまいりました。」
◦「私は思う。音には白い音、黒い音、赤い音、黄色い音というように、いろいろな音がある」
◦宮城道雄のいう「馬鹿になれ」とは「素直になれ」ということである。私の経験でも、伸びる人か否かはすぐにわかる。若いときに素直な人は必ず伸びる。素直な心、それを素心という。