江戸期の来長者

現在、大分歴史資料館では「来者ー彼らが見た大分」の特別展示が行われている。これにあやかり、長洲小学校百年史による江戸期の「(洲)者」の紹介

伊能忠敬他7名(測量方、絵図師、弟子、仲間)は、1809年(文化6年)12月27日に九州に入り、年を超えて長洲村等の測量を行う。

以下、伊能忠敬の日記より

文化7年1月3日 長洲浦庄屋岡田長左衛門、高田浦庄屋山田孫三郎が挨拶にくる。

(一行が滞在する小倉城下まで)この夜積雪凡そ三寸。(9センチ)

1月23日 岡田長左衛門、大庄屋高田源之助来る。この夜晴天測量。

1月25日 朝より晴天、今津村出立、・・・

住江村広末止宿、百姓九郎兵衛、家作大に隠宅もあり家作も宣し、一同止宿。この夜、高田村庄屋吉原運平、高田浦庄屋山田孫三郎、大庄屋長洲新兵衛高田源之助来る。このよる晴天測量。

1月26日 朝より、晴天、先手六ツ頃(午前6時)、後手六ツ後(午前7時)、住江村広末出立、後手我ら、青木、梁田、箱田、長蔵、同所より初め沖洲村、中須賀村、駅館川巾七十八間(140m)、この川領界、それより島原領長洲村枝西浜、佐々礼村、松崎村界測る、住江村広末より一里二十六丁一間二尺、長洲村大庄屋長洲新三郎にて昼食、三十丁ほど帰る(里:3.9㎞、丁:1.2㎞、間:1.8m、尺:0.3m)

水崎佐々礼松崎より大田村、高田、宮町浜町境まではかる。

1月27日 朝より大雨。高田村逗留、終日雨、当所陣屋代官川村戸七郎小川仁兵衛、大庄屋長洲新三郎高田源之助出る。夜も雨

 

その他伊能忠敬測量日記で分かること

①長洲村に枝村として「西浜」の記載がある。この場合の、西浜は現東浜も含んでの事と思われる。

 ・大庄屋長洲新三郎の記録によると、現高倉神社の崖下は「汀」と呼んでいることから、

  この線が海岸線であったと思われる。

 ・「きりめん様(現貴船神社)」は、東西に短く、南北に長い境内であったといっているので、  
  川の自然堤防の上に開かれてものと思われる。

②日記に登場する庄屋

  長洲の庄屋としては、岡田長左衛門一人のみ。

下記は伊能図