久々の「宇佐おもしろ歴史ピクニック」は、いつもお世話になっている教覚寺

「教覚寺と森山の歴史」を題材に、教覚寺第二十代住職で宇佐市塾塾頭の平田崇英さんと本企画の発案者で講師の小倉正吾さんの話を聞きながら教覚寺の深層部?に深入りした。

教覚寺の歴史 (当日資料より抜粋)

・開基 文明3(1471) 宇佐神宮大宮司平田公通8代後公頼の子明心

  寺号 明応元年(1492) 蓮如上人より「教覚寺」の寺号下付される

・延享元年(1744) 10代慧命 別院騒動での大岡裁きで流罪となる

天明6(1786) 本願寺学僧、第11代崇廓寂。 本願寺より「究達院」下付

・現在の本堂 文政7(1824)建立。 文化8年に着手してより13年で完成

・文久元年(1861) 本願寺第20代廣如上人より「別院建立の御書」下付され   

  (本願寺年表)

・明治22(1889) 教覚寺仏教婦人会設立(本願寺仏教婦人会150年史)

・平成3(1991) 台風19号により、本堂屋根等に甚大な被害

・平成 7(1995) 本堂平成の大修復終了、 落慶法要厳

 平成5年着工より、2年をかけ完成 工事関係者、延4241

 瓦枚数 37,928枚 瓦総重量 284t 鬼瓦 670㌔ / 枚(大きさは四畳半) 下り鬼、120㌔

・平成26(2014) 教覚寺納骨堂完成

・平成29(2017) 門徒会館改築落慶法要厳修

 ・寺の文化財経蔵(輪蔵)本堂棟板 虚空蔵寺博仏(宇佐市指定文化財)

左の今回資料及び説明に基づきブログ「宇佐公通と教覚寺及び平田家」に追記

教覚寺と大河内伝次郎(平田崇英住職の大おじ)

大河内伝次郎の妻:妙香(平田)について 『大河内傳次郎』富士正晴著より

 

   その見合いの相手である平田妙香はまさしく寺の娘(次女)で、

   その時、門司市大里別院の鎮西女学校の教師をしていたが、

   冬季休暇で生家の寺(教覚寺)へ帰って来ていた。

   大河内の母がこの人をと心に決めた女性である。 p179

    *大河内伝次郎(本名:大邊男オオベマスオ)父・晋と母・アキの五男に生まれる。

      父方は、代々医師。中津藩主の侍医、維新後は町医者。

      母方は、祖父は中津藩士で儒学者。

   御園京平の「年表」には、

   「昭和七年(一九三二)三十五歳(中略)五月平田妙香嬢と結婚す。

   《母のすすめにより大分県宇佐郡八幡村大字森山(現 宇佐市高森〔本当ハ森山〕)

   西本願寺末寺 教覚寺住職 平田琢勇師の息女〔本当ハ孫〕で

   京都女専家政科出身の妙香(24)さんと五月十九日

   京都錦小路西洞院 丹栄で芽出度く結婚式が挙行された。

   新郎新婦はその日新婚旅行に出発した。(後略)》」 p185

 

  ※大河内の母 アキ(大久保逕三の四女) p186

  ※平田琢勇師の息女〔本当ハ孫〕     p186

   平田琢勇 (西本願寺派)――崇鎧 (妙香の父)

   佐々木僧了(西本願寺派)――アキヨ(妙香の母) 教覚寺の歴史には「昭代

 

   教覚寺第十八代住職:崇鎧

     〃 十九 〃 :崇徳

     〃 二十 〃 :崇英⁽現住職で豊の国宇佐市塾塾頭)

 

 大河内伝次郎は平田崇英氏の大叔父、その妻昭代は叔母

伝次郎桜 2017/4/6 (毎日新聞紙面)

教覚寺の山号は泥洹

山号は、仏教寺院につける称号。寺院が所在する山の名をつけている場合と所在地とは関係のない仏教用語をつけている場合がある。

 

教覚寺は泥洹ないおん)(日本国語大辞典では涅槃の音訳とある) *パソコン入力時等苦慮しているとの住職弁(笑い)

 

 

比叡山延暦寺

龍谷山本願寺 (龍谷大学)

吉祥山永平寺

東山 建仁寺

身延山久遠寺

 

教覚寺と平田井手について

平田井出にまつわる白蛇伝説について

その他当日資料より