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市民図書館特別講座「広瀬井路と平田井路」最終回

昨年11月「宇佐の灌漑用水(平田井路・広瀬井路)」が世界灌漑施設資産に登録認定されたのを記念し、市民図書館による特別講座が開催されることになった。昨年6月スタートした講座も、今回の平田崇英講師による「中島力男の仕事」で最終となる。最終章を飾るにふさわしい人物設定と内容だった。

久恒啓一氏八田與一記念公園訪問記より転載

https://www.hisatune.net/kinenkan/world.htm#taiwan

台湾3日目。新幹線で桃園から台南へ。1時間24分。
9時45分台南着。人口は200万人。台北280万。台中280万。高雄280万。新北370万。
今朝まで大雨だったそうだ。

12月の統一地方選民進党がやや優勢。2016年に総統選。馬英九総統は無能という評価。中国も見限って民進党に接近。

 

ゼーランド城。安平保塁。フォルモサ(美しい島)。

オランダ時代17世紀38年間、1662年からの鄭成功時代、18世紀から19世紀の清朝時代、19世紀から20世紀にかけての日本統治時代、国民党時代。
鄭成功。1624ー1662年。38歳で没。民族の英雄。開山王。長崎平戸生まれ。国姓爺。
浜田弥兵衛事件。1628年。オランダ長官に直談判。人質。長官を免職させる。

プロヴィンティア城。赤がん楼。鄭成功がオランダの降伏を受け入れた場所。
羽鳥又男。1892-1975。83歳。24歳で訪台,、台南。32歳で台南市長。歴史古蹟、文物民俗。最後の台南市長。歴史文物の保存に功績。群馬県勢多郡富士見村中川健藏、こばやし、長谷川清の三代の総督に。楼を修復。今でも慕われている。

延平郡王祠。前無古人。開山王廟。台湾開発。屯田兵制度。国鮮魚。清朝は忠節という号を贈り祠を許可。父のと鄭芝竜と医者の田川七左衛門の娘マツの間に生まれたのが福松。福松は一人福建へ。後にマツも海を渡る。1646年清軍南下、マツは自殺。母の仇を打つ17年間。

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八田與一記念公園。烏山頭水庫。嘉南大州設計者。
八田與一銅像。1886ー1942年。明治19年生まれだから私の母方の祖父と同い年。東洋一のダム建設。この世のものとは思えない素晴らしい景色。見下ろしながら。ドライバーはこの近くの人。「尊敬。感謝。農業用水に困ったことがない。米、野菜などすべて」。この世のものとは思えない美しい湖となっていた。世界遺産登録を目指している。雄大な景色。翠色の水。美しい緑の島影。
2011年に公園が完成。
八田技師紀念室。2000年。永遠的技師。土木学会選奨土木遺産。1942年没。1945年銅像発見、妻投身自殺。1946年夫妻の墓を烏山頭に建立。環境に優しいダム。嘉南農田水利会は台南市、台南県、嘉義市にまたがっている。八田記念公園は2011年完成。土木学期選奨土木遺産。石川県の谷本正徳知事の書もある。
嘉南大州の父。烏山頭水庫の父。台湾水利の父。嘉南小学校(前身は日本人技師の子女教育)と金沢市花園小学校は姉妹校。
八田故居。宿舎群。テニスコート、プール、屋外映画館、診療所、学校、売店、公衆浴場、食料品売り場など。自宅の前には良縁、健康、日台友好などのお願い。神様になっている。12畳の書斎。31歳の與一は16歳の外代樹と結婚。人類に貢献できることをやるという志。日本は狭すぎる、外地で腕をふるうほうがいいのではないか。20世紀で最も偉大な技師の一人。
「人々の思いにこたえ 人々に今もしたわれている八田與一 私もそんな人になりたい」(台北日本人学校6年 石井陽菜)
「ふるさとにみんなで築いたかけはしは心の中でずっとあきずに」(石川)
「人々の感謝の気持ちこめられた唯一の銅像いつも、、 」(千田悠里)

川勝三「台湾を愛した日本人--土木技師・八田與一の生涯」(創風出版)を読了。
著者は1944年生まれ。愛媛大卒業後、教職の道を歩む。36歳から3年間台湾省高雄日本人学校に勤務。
このとき八田與一を知る。47歳、「台湾を愛した日本人」で土木学会著作賞を受賞。松山市の中学校校長を歴任した後、定年退職。今は「台湾を愛した日本人?-蓬莱米の父・磯永吉  蓬莱米の母・末永仁を取材中。
一つの峰を越えて、次のテーマが浮上した人の軌跡がここにある。
台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯-
台湾はもともと無主の土地であった。
オランダ人が日本、中国、バタビアの中継貿易基地として、1624年にゼーランド城とプロビデンジャ城を建設し、以後37年間の植民地支配を行う。
1661年、鄭成功清朝打倒の基地として台湾に侵攻しオランダ人を降伏させる。子孫による支配は22年間。
清朝は212年間にわたり台湾を支配する。
1894年、日清戦争で勝利した日本は下関条約により台湾とぼうこ諸島を譲り受け、日本初の植民地となる。
1945年、第二次大戦で日本敗北。中国共産党から追われたた国民党が台湾に上陸し中華民国台湾省となる。

日本植民地時代の台湾は、当初は土匪との戦いに明け暮れたが、第4代総督・児玉源太郎後藤新平民政長官時代に、大成功をおさめ、以後台湾は急速に近代化する。
その台湾近代化の過程での一人の若い人物が、大きな仕事をする。それが東洋一のダムをつくった八田與一である。
このダムによって洪水と干ばつと塩害の三重苦にさいなまれていた不毛の大地嘉南平原は緑の沃地に変わり、台湾最大の穀倉地帯となった。香川県に匹敵する感慨面積である。
この工事は1920年に開始され、1930年に完了する。10年の歳月を要した。総工費は現在の価値で5000億円以上。
計画時32歳だった八田與一はこのとき44歳になっていた。
農民の収入が増え、生活が豊かになり、粗末な家がレンガ造りになるなど衣食住は急速に改善された・
人造湖・珊瑚潭を見下ろす丘に八田與一銅像が建っている。物思いにふける座った像である。
中華民国が支配することになった台湾では、日本人の銅像の類は撤去されたが、この八田與一だけはかろうじて残った。今残る唯一の日本人の銅像である。
八田與一は1942年にフィリピンに向かう途中アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、東シナ海で死亡。享年56歳。その3年後、妻の外代樹がダムの放水路に投身自殺。夫婦の墓がある。
中国に「飲水思源」という言葉がある。水を飲む時には井戸を掘った人のことを思い感謝して飲むという意味だ。
まさに台湾に人にとって、八田與一は井戸を掘った人となった。
人類のためになる仕事をし、後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事をした。
大きな仕事は、30代か40代までに行わなくては駄目だ。
過去の文献や事例を徹底的に調べ上げ、それをもとに現場に合う合理的な方法を組み立てていく。

1998年、台湾の歴史教科書「認識台湾」に八田技師が取り上げられる
2000年、烏山頭ダムに八田技師記念室が開館
2001年、「台湾を愛した日本人」の台湾語版が出版
2004年、金沢市ふるさと偉人館に常設展示コーナー
3・11東日本大震災の時に、台湾からは200億円を超える義捐金が届いた。この額は世界最大だった。
その陰には、八田與一のような素晴らしい日本人の貢献の蓄積の歴史があったのだ。

http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20140409

若干32歳の若き技術者が今日の金額で五千億円の巨額工事「東洋一の巨大ダム建設」を指揮した物語。
台湾における唯一の日本人の銅像が建っている。
最近入手した「台湾国民中学歴史教科書 台湾を知る」の83ページから84ページにかけて八田與一の名前が出ている。台湾を知る―台湾国民中学歴史教科書
農業改革の項で、「水利工事を行い、耕地灌漑面積を大きく増加させた。その中でも有名なのが八田與一が設計、建造した嘉南大?で、灌漑面積は15万甲に達した。」と讃えている。
そして「嘉南大?の水源基地工事図」として写真を載せている。
以下、参考情報。
ダムの送水站の脇に「八田技師記念室」が平成12年に開館。
金沢市ふるさと偉人記念館に八田與一技師を顕彰する常設展示コーナーが平成16年に開設。
台湾の人のいう日本精神。「今日の台湾の発展は日本精神のおかげです」。
嘘をつかない。不正なお金は受け取らない。失敗しても他人のせいにしない。与えられた仕事に最善を尽くす。
http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20140406

 

八田與市は1886年(明治19年)生まれ。私の母方の祖父と同じである。
嘉南小学校(前身は日本人技師の子女教育が目的の学校。六甲尋常小学校)と金沢市花園小学校は姉妹校で、夏休みには金沢からの訪問している。
旧八田宅の前には、「良縁、健康、ノーベル文学賞、日台友好」などと書いたお札がさがっていた。台湾において八田は神様になっていた。

「お前にとって日本は狭過ぎる。ここは古くて器量の狭い人間ばかりだから、ガイチで腕をふるうほうがいのではないか」とアドバイスされた八田は「人類に貢献できることをやる」という志を立てた。

八田與一故居は石川県から古い家具や調度品の寄付をもらい復元された。八田成子、守、音子、澄子という名前も。
書斎は12畳ほどの広さ。

5月8日に慰霊祭。

小村外代樹
4年生の操行評価。
「怜悧、着実、端正、勤勉、寡言」。賢く素直で慎み深く正直、そして勤勉。
「英語が得意。成績優秀で前田公爵から銀時計」。

大変収穫のあった一日だった。詳しくは別途。