宇佐市の図書館でこの書籍に出合った。元はといえば、豊の国宇佐市塾の例会にて、日本三大疎水の父といわれる郷里の偉人「南一郎平」が座右の銘とした「自彊不息」がわが母校の校歌にも謳われる事を知り、その作詞者を知りたく手に取った書籍だった。然れど!である。これまで興味もなく、不知の領域だった私にとっては、郷土史教本として十二分な内容であり、興味ある個所の概要を私流解釈でノートし、何かの時のカンペにすると共に自身の想い出等も付記することにした。

 

発刊の経緯

 明治11年(1878年)11月に設立された長洲小学校は、昭和53年(1978年)百周年を迎え、この記念行事の一環としてこの書籍が発刊された。

 

第一編 あいさつ

第二編 長洲小百年の歩み

第三編 小学校想い出の記録

第四編 長洲の歴史」の目次と出筆者

一、はじめに     椛田美純

二、長洲の古代史

 (1)長洲の地形  椛田美純

 (2)金屋のおこり  〃

 (3)長洲のおこり  〃

 (4)長洲の古墳  入学正敏

 (5)港と北宋銭  椛田美純

 (6)平家伝説と灯籠 〃

    灯籠について 入学正敏

三、長洲の中世史

(1)宝光明寺    椛田美純

(2)車瀬       〃

(3)金屋鋳物師    〃

(4)長洲の豪族山崎氏 〃

(5)賀茂神社     〃

            (6)祈祷祭文    森園源九郎 

            (7)神光寺     椛田美純

            (8)妙満寺      〃

            (9)宇佐宮領と長洲  〃  

            (10)長洲大火事件   〃

            

           

 

   

 

 

四、長洲の近世史

(1)小倉藩人畜改帳   椛田美純

(2)島原領と年貢割り付け 〃

(3)治世のようす     〃

   長洲役所諸役    田山徳光

(4)島原への道と日記  椛田美純

(5)いろいろな記録    〃

(6)祇園祭       田山徳光

(7)当時の漁法      〃

(8)鯨がとれた話    永岡孝養

(9)屋号        田山徳光

(10)古手屋        〃

五、明治時代の長洲

(1)長洲町の誕生    永岡孝養

(2)長洲・金屋小字地図 椛田美純 

(3)明治の長洲     田山徳光

(4)魚会所        〃

(5)行商         〃

(6)長洲商人の進出    〃

(7)えび舎と打瀬船    〃

(8)長洲警察署の歴史  高橋康夫

(9)朝鮮のぼら網漁業   〃

(10)長洲駅の今昔    永岡孝養

(11)若衆宿と娘宿    田山徳光

(12)中村俊松       〃

(13)南一郎平       〃

(14)島崎拙翁      椛田美純

(15)長洲の文化     嶋田孝徳

(16)長洲の方言      〃

             (17)子供のあそび     〃

             (18)長洲の掛け合い歌  入学正敏

 

             第五編 記念事業発足のしおり

             第六編 卒業生名簿

            

 

長洲に関する年表

  百年史に記載される長洲の人口:    ↓1622年:1000人

                               ↓ 1788年:2600人

                                                     ↓1907年(明治40年):8770人                   

                                                     現在:5600人                                                                                     

 

はじめに (椛田美純)

  吉田東伍の地名辞書を引くと、長洲は「名の通った港(海駅)」だった!

 この事は、神話とも一致する!

長洲の古代史  椛田美純

 長洲には、高倉古墳が!

  南善吉氏説によると、これは神武天皇を案内した珍彦の父武位起命(タケクラオキノミコト)の陵墓

長洲の地形 と地名

 長洲の低地部(町部と東浜の一部)は駅館川河口の中洲にできた土地。浜部は江戸時代になって、埋め立て

  等によりできた土地。故に地名は、中洲がにごってナガスに、はたまた縦に長い洲ゆえか?

明治の地質学者:東木龍七提唱の「旧森湾」について

 

東木龍七:?~1943年(S8

地形と貝塚分布を考察し、独自の地誌学を提唱した学者。

生年は不明、名前から龍年生まれだとすると1892M25)享年51歳となる。三毛門村(豊前市)出身小倉師範学校卒

T9年に上京し、東京帝大理学部地理学科助手となる。

1929年(S4年)、東木龍七は、「日本内海西域周防灘南部の成因論」で、国東半島付け根部に位置し、先史・原史時代の史跡が多く遺存する豊後高田市で周防灘にそそぐ桂川の河口部その周辺は、縄文時代の貝塚の宝庫。この一帯の貝塚の分布を地図上に結び往時の海岸線を復元、これを旧森湾と提唱した。

樋口清之 1909(M42)~1997年(H7)

考古学者、歴史作家:樋口清之も1930年の「大分県西国東部河内村森貝塚の研究」で同様の提唱をしている。

 

 

GoogleEarthに、「百年史」に記載される内容で旧森湾をプロット。東部の海岸線が不明なので、現桂川を海岸線とした。

樋口清之 大分県西国東部河内村森貝塚の研究」より

 

現在の高田平野と周防灘と接する海岸線は一帯に平滑単調であつて、極めて僅か弓状彎曲を呈するに過ぎない。しかし、今假りに、本貝塚の存在する二十五米標高線の次、二十米標高線を参謀本部地図上にたどる 時には獨文摘要第二図に示す如き、現在の海岸線に対し、一の湾入線を得るのであつて、自分は種々の理由より、この線を以て往時の海岸線であらうと想像し仮に之を仮定旧海岸線と命名して森貝塚に対する海岸の関係を、現海岸ではなく、この假定旧海岸線に求めようとするのである。然る時は、この仮定旧海岸線は、高田平野南方,応利山麗の海岸段丘の連続とほぼ一致して、森貝塚の付近においては一度軽く南方に反転して半島状小瘤をつくり、その中に田染川河 口を抱いて北、都甲川河口と対し、これに田染都甲両 河の合流によつて出来た。 おそらく半淡半?の部分も出来たであらうと想像される小灣入が出来、全体の 湾入(自分は之を旧森湾と呼ぶ)に対し、第二次湾が成されるのである。

国学院メディアより

明治・大正・昭和を生きた研究者秘話
國學院大學博物館の礎を築いた樋口清之

國學院大學博物館の館祖たる樋口清之先生は、明治42(1909)年、奈良県桜井市に生まれた。先祖は、織田長益(有楽斎)に発する旧家である。祖父宮部清吉郎広綱氏は維新後、奈良県政に携わると共に儒学、国学を学んだ学者で、父樋口清二氏は、京都帝国大学を卒業し、各地の師範学校等の校長を歴任した教育者だった。

 そのような環境で育った樋口先生は幼少の頃から自ずと学問に目覚め、とりわけ考古学に興味を抱くようになっていった。進学した畝傍中学校時代にその頭角を表し、既に大正15(1926)年頃には、『考古学雑誌』『人類学雑誌』などの学術誌に十数篇の論考を投稿し、昭和2(1927)年、鳥居龍蔵先生を慕って國學院大學に入学後は、考古学、人類学の勉学に勤しんだ。3年時には、中学時代を通じて奈良県各地で採集した考古遺物を基本に博物館の必要性を大学当局に訴えたことによって標本室を獲得し、公開に至ったのである。

 このように博物館施設の設立計画を俎上にあげ実践したのも、まだうら若き考古学徒であった樋口先生で、その強力な推進者として上代文化研究会長鳥居龍蔵先生をはじめ、中川徳治、丸茂武茂、福田耕次郎、雨宮祐、新倉借光、神林淳雄、水野久尚、三木文夫、森貞次郎、江藤千萬樹、長田実(以上敬称略)その他各方面からの支持者をあげることができる。同7年には、当時の国史研究室主任植木直一郎先生の助言によって「考古学資料室」と改名した。この年、樋口先生が卒業と同時に国史研究室助手に採用され、資料室が国史研究室の附属となり、考古学研究と一体となった組織として正式に根付くことになったのである。

樋口清之:「大分県西国東部河内村森貝塚の研究」の序説に、「・・・・親友森貞次郎君がわざわざ福岡県築上郡から自分等の為来援されて付近地図の原稿を作成し、・・・・・感謝に堪えないところであった。」と記載している。

 

長洲のおこり

高倉古墳について

 現状、市の文化財分類では県の史跡で、形状は円墳とされる高倉古墳に対し、椛田正純、入学正敏氏は「発掘調査が行われていないことから正確なことは分からない!」としているものの、故南善吉氏の遺稿や独自の調査・聞き取り等により「この古墳は前方後円墳であり、宇佐地方第一級の小国家国王の墳墓である!」との強い思い入れが伺える記載内容となっている。また、椛田氏は高倉古墳は宇佐国造家の古墳が通説だが、神武東征神話に登場する海部族珍彦の父武位起命(たけくらおきのみこと)の陵墓では! とも書いている。

本書に紹介される高倉古墳(故南善吉氏遺稿より)の記載内容をGoogleEarthにプロットしてみた。

  *幼少の頃の高倉古墳(高倉神社)の想い出 👈悪ガキ時代ののお仕置きの場所

「長洲アーバンデザイン会議」作成地図での町名

  長洲の町名は、

 

 

町名

 上町下町港町、中町、 

    新町、西港町

 東浜(東の西、東の東)

    西浜(西の南、西の北、中 

      の西、中の東)

 坂の上、坂ノ下

 

 

   

*長洲の町名が歴史文書に最初に登場するのは、戦国時代1512年の長洲大火事件

大友家支配の乙女村平左衛門が長洲に来ていて殺される

親の孫左衛門が仕返しに親族を集め長洲に乱入火をかけた

 宇佐宮が大友に申し入れをした文書に長洲の地名と神領であることが記載

 ⇒詳細は長洲の近世史にて

 

 

金屋のおこり

 三世紀の金屋台地にできた小国家は朝鮮系の渡来人:泰氏によるものであったかも知れない?  

 

宇佐に住んでいた大陸からの渡来民族は

*秦氏(はたし)であるといわれている。 秦氏の農民をひきいていたのが勝氏で辛島郷は辛島勝が支配していた。金屋の川上神社の鳥居は「牛頭ごず天王 」と「牛頭天皇」の二つがかかっている。 牛頭天王とは素盞鳴男尊すさのうのみことのことで、朝鮮の春川に牛頭山という山があり、素盞鳴男尊を祀って牛頭天王といっている。

明治三年の神社書上げには

一、川上神社 一座

祭神  素盞鳴男尊

御勧請ハ天慶年中 (938~947) 御座候。

  とある。

 川上神社は廟森古墳、廟石棺群の地に勧請されたもので、古墳をお守りしていた人々が氏子となって神社を祭ったも のであろう。してみると、三世紀の金屋台地にできた小国家は朝鮮系の渡来人によるものであったかも知れない。

*秦氏:朝鮮半島新羅の国から渡来してきた人たち。ハタは新羅語で「うみ」の意味。

*九州歴史博物館の秦氏関連資料

武位起命と貴船社

 :おかみ」の字を分けると「雨」と「龍」

長洲神社(賀茂神社と貴船神社)の起こり

神光寺

宇佐五代初代大宮司宇佐公則の開基と言われる禅宗(曹洞宗)の寺。

1431年(永享3年室町)再建される。

宇佐五代とは、宇佐神宮の最盛期の五人の大宮司(公則、公相、公順、公基、宇佐朝臣公通)の時代で、奥州藤原三代と並び宇佐五代と称される。

 「古代の長洲は、駅館川本流と城ケ峰下を流れる川との間に自然堤防のような洲があり、これを中洲と呼んでいた。この中洲に流れ着いた木を陸に上げようとしたときに清泉がでたり、木に八幡大菩薩の文字があったりしたとされ、このことから宇佐公則が材木を積み上げていたところに寺をつくり、江雲山神光寺とした」と神光寺につたわる。当時の長洲は宇佐神宮領。*公則大宮司就任は1053年平安でこれ以降宇佐氏が大宮司独占(宇佐氏より)

 

蓑虫山人と神光寺愚道和尚

 

 

*奥州藤原三代

奥州藤原氏は、平安時代末期に東北地方で大きな勢力を誇った一族です。特に、藤原清衡、基衡、秀衡の三代が有名。奥州藤原氏は、1189年に源頼朝によって滅ぼされるが、その文化遺産は現在も平泉に残る。

 

      

 

平家伝説と長洲の初盆行事

1180 源氏挙兵

1183 安徳天皇西海に下る

   8月 大宰府に入るが源氏に責められ、宇佐神宮、屋島へ

   9月 長洲に上り、森山にある宇佐神宮大宮司宇佐公通の館へ

    /13 宇佐神宮にて歌会

       この夜、平清経(小松内府と呼ばれていた平重盛の三男)

       長洲の浜に入水

        *宇佐宮への勅使をつとめたのが平清経。京都に帰りたいとの願望に対し神の託宣は「世の中のうさには神

         もなきものを、何いのるらん心づくしに」とつれなかった。平家物語では、この託宣は、平宗盛の夢の中

         とされている。

       👇

       この清経物語をあわれんだ長洲住民は

        駅館川河口を小松浦と呼ぶようになる

        初盆行事に据え燈籠を作るようになる

       *長洲に住みついた平家の落人が、盆に京都を偲ぶと共に仏の供養のために

         据え灯籠を作り始めたとの説もあり、いずれにしろ長洲と京都とのつながりが

         伺える。

2023年12月14日 大分合同新聞「灯」

長洲の初盆に飾られる据え灯籠

据え灯籠を主体に行われる初盆行事

安徳天皇を祀る祠(御池様)の現在

宇佐市森山地区に残る安徳天皇の言い伝え

花の森山御所どころ 

 森山地区にある教覚寺の住職で「宇佐市塾」塾頭をつとめる平田崇英氏(平田公通の末裔)の

 地元紙大分合同新聞コラム「」への寄稿文

 

緒環(おだまき) (平家物語第八巻)より

さる程に、筑紫には内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、いまだ都も定められず。

主上は岩戸の少卿大蔵の種面が宿所にわたらせ給ふ。人々の家々は野中、田中なりければ、麻の衣はうたねども、十市の里ともい()つべし。内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿もかくやとおぼえて、なかなか優なる方もありけり。

まづ宇佐宮へ行幸なる大宮司公通が宿所皇居になる。 社頭は月卿雲客の居所になる。

回廊には五位六位の官人、上には四国鎮西の兵ども、青味を帯して雲のごとくになみゐたり。ふりにしあけの玉垣、ふたたびかざるとぞ見えし。

七日参籠のあけがたに、大臣殿のために夢想のぞありける。御宝殿の御戸おしひらき、ゆゆしくけだかげなる御声にて、

世のなかのうさには神もなきものをなにいのるらむ心づくしに

大臣殿うちおどろき、むねうちさわぎ、

さりともと思う心もむしの音もよわりはてぬる秋のくれかな

 

といふふる歌をぞ、心ぼそげに口ずさみ給ひける。さて大宰府へ還幸なる。

中世長洲の土豪は山崎氏(長洲氏)

山崎富吉氏宅に残されている文書の一部 👇

長洲小学校校庭の一角にこの石碑(S60年建立)があり、長洲城及びその領主の長洲氏の事が記されている。

大友氏鑑の乱について

長洲の近世史

中津小笠原五代

1632年(寛永9年)細川にかわり譜代大名で小笠原一族の惣領でる小笠原忠真ただざね)が豊前小倉藩(15万石)に加増・移封される。同時に中津(8万石)に甥の長次が、杵築(4万石)に忠真弟の忠知が、龍王に(現安心院、3万7千石)重直が入封し、北部九州は小笠原四家による九州探題としての役割を果たす布陣となる。

 

「中津藩」 

小笠原長次(ながつぐ:忠真の甥)が8万石で中津に入封。(宇佐郡124カ村も統治下)

島原の乱で功績、治水工事等で善政をしく。

1662年長次死去により二代目は長勝。病気療養を理由に歌舞・遊園の限りをつくし藩財政を圧迫。郡代岩波源三郎登用による苛政と圧政。幕府の耳に入り叱責。

三代目長胤(ながたね)は、1694年中津城下大火復旧に失敗、乱交とも重なり領地は収公され8万石領有の中津小笠原藩は終わる。

長胤改易後、上・下毛、宇佐郡4万石が弟長円(ながのぶ)に与えられ、あと半地は幕府領に編入され四日市が天領となる。

1716年五代目の長邕ながさと:長円長男)が6歳で死去小笠原家中津藩はこれをもって終わる。

 

 

小倉藩人畜改帳 椛田美純 

     この頃の洲村、金屋村合わせた人口は約1,000人。現在は約5,000人

1587年(天正15年)秀吉九州征討、豊前を黒田官兵衛に渡すが、土豪(地頭)たちは一揆を

起こす。

宇佐郡を攻める長政に対し、糸口の時枝、宇佐の宮成氏は早々に旗下するが、高家城中島氏、四日市の渡辺氏は滅ぼされる。中津城での城井鎮房(きいしげふさ)謀殺、合元寺の赤壁の話は有名。

平定後は、黒田兵庫助(利高:如水の同母弟で黒田八虎の筆頭)が高森城にて治める。

江戸時代に入り、長洲は豊前小倉藩細川の領地となる。

 

下記は1622年(江戸将軍は秀忠) 細川氏入国時の長洲の人畜改帳

長洲は高森の手永てなが:細川が小倉藩に導入した行政区画制度。手が届く範囲の意味で、郡や村の半分程度。会所と呼ばれる役所を置き、最高責任者として惣庄屋を置いた)に属していた。高森の惣庄屋は高森孫左衛門.

*1石は一人が一年間に食べる米の量  一石=10斗=100升=1000合

 

 

       

1669年(江戸将軍は家綱) 小笠原に代わり、松平忠房が島原藩の領主となり長洲は島原藩松平 

 の飛び地となる。駅館川東部と高田を合せた地域を豊前御領と呼ぶ。柳ヶ浦は天領となる。

 

1747年(延享二年)戸田氏の支配となる。松平は入れ替わりで宇都宮藩へ移封。

 

1774年(田沼意次老中、杉田玄白解体新書)再び、戸田氏と入れ替わりで松平の地となり、

   廃藩置県まで続く。→後期松平藩

 

1788年(天明八年)大庄屋差出による人口は、長洲2,036人、金谷595人となっている。

 1622年比(約160年で・・・)

  長洲:727→2036   2.8倍 江戸中期長洲の人口は急激にふえた

  金屋:238→ 595   2.5倍 

 

長洲大火事件により、「長洲」が歴史文書に初登場

左記の文書により、長洲の地名が歴史書に初登場

 

1516年(永正13年)長洲村は放火され、83名もの負傷者がでた。

「事の起こり」

・永正13年正月20日、乙女村の平左衛門が長洲に来ていて争いを起こし殺される。

・平左衛門の親の孫左衛門が親戚の来縄(豊後高田市)の吉久と相談し、乙女村と来縄の親戚を引き連れ4月16日の夜長洲に乱入。

・長洲側も応戦したが、放火され83名もの負傷者が出た。

・長洲村の領主である宇佐神宮の宮成大宮司は、「神領を犯すとはとは何事!天罰が下るであろう」と大友氏の奉行に届け出る。

妙満寺と四日市別院騒動

  四日市別院騒動での大岡裁きは「喧嘩両成敗」

長洲役所諸役

 1788年(天明8年)大庄屋長洲新三郎作成の差出帳によると

長洲村

  人口:2036人

  馬  34匹

  船  85隻

金屋村

  人口:595人

  馬  50匹

とある。

また、当時長洲には司法・行政、収税のすべてを司る会所が設置されていた。

 

1622年: 727人(小倉藩人畜帳)

→1788年:2036人

  160年で2.8倍

   金屋も2.5倍

大庄屋長洲新三郎(本多氏)

大庄屋本多氏(公文書では長洲氏)は、元橋津氏より別れ長洲に住み、九ケ村の司として代々その職(改め役)を勤めた。本多家は、約千坪の広大な敷地に住み、邸内には約150坪の池を有ち、その池の畔りに安徳天皇と河童を祀る祠を安置していた。

明治五年最後の大庄屋として勤め上げた長洲新三郎は、明治7年長洲小学校建設にあたり、建設資金調達に奔走、自己資産の売却等により不足資金を補い完成させた。

また、明治18年には、長洲と柳ヶ浦を結ぶ小松橋の架設にも奔走、身の危険にも及ぶ反対派の行動にも屈せず長洲経済の発展の基礎となる小松橋を完工させた。

明治24年長洲村は金屋村との合併により町政が施行され、明治30年長洲新三郎は町長となる。

 

橋津氏:名字由来によると福岡県豊前の豪族にして大分県宇佐郡橋津村が紀元とある。

沖番:港出の船舶の取調べ、積荷の調査課税、漁船の着岸指示及び魚価の決定、海上における警察権・課税権等のすべてを取り仕切っていた。

魚改め:漁船の接岸指示し魚種、漁獲高を調べ魚会所に水揚げさせて魚価をを定め運上金を獲りたてる役目 魚口銭は、所舟は四分、他所船は五分で、口銭の半分が改役に支給されていた。

 

魚屋(永田氏)

小笠原藩時代に、南院内温見村より長洲に移住して西浜に住みついた。その後、かなりの財をなし後期松平藩になって魚改め役を委託され代々世襲した。

永田氏は質屋、ごま油製造、精米業等も兼業、他人の地所はわずかしか踏まずに高田まで行けたというほどの分限者になっていた。天明、天保、弘化の大飢饉に、米を供出、粥にして漁師たちに施したことから「魚屋の施粥」として語り継がれている。

永田氏の子孫永田芳太郎氏はM29年より長洲町三代目の町長を務め、その孫の永田節氏は戦後、長洲から初めての衆議院議員となっている。

尚、長洲町初代町長は、長洲村最後の庄屋岡田純一氏(M28年)

長洲村の庄屋は当初溝口氏一家だけだったが、天明の頃浜部を主体に急激に人口が増加したことから、岡田家が追加任命された。

 

枡屋(佐々木氏) 魚屋につぐ分限者

生蠟製造業:櫨を搾っての生蠟の製造は島原の特産、専売品でもあり藩の隠し財産でもあった為、藩の飛び地の豊州領長洲でも増殖の奨励がたびたびあった。指定業者に櫨の実を集荷させ、工賃により生産させた生蠟を藩に納入させた。枡屋(佐々木氏)は、1769年(安永4年)に現豊後高田市より長洲西浜に移住、藩の生蠟製造指定業者として盛業、質屋も兼業した。生蠟が自由売買になった後も、業を盛んにし近郷きっての豪商となった。金屋の金井屋も同様。

左の写真は、当時の名残をとどめる長洲小学校北側登校道添いの櫨の木。

幼少の頃、蝉とりで櫨にかぶれた手に、薬として油揚げを張り付けられたのを思い出す。

 

幕末から明治にかけ活躍、長洲文化の流れを作り上げたのが佐々木家の子孫「佐々木月破」門弟の佐藤南室

小学校中町側石段には

 蝸牛の角にたまるや小ぬか雨 月破

 野にさびを のこして行や 秋の雨 南室

の二人の句碑が今も残る。

 

郷倉(ごうぐら):江戸時代、郷村などで、年貢米を上納するまで貯蔵、また凶作に備えて穀類を保存した共同倉庫の事。享保・安永・天保と続く飢饉に藩も住民も困り果て、その対策として藩は各庄屋に命じ、一反につき米一升五合当りの供出を定め、卿倉に貯わえた。

郷倉は一村に一ケ所設置、庄屋の管理下に置かれた。長洲では庄屋溝口氏が鍵をあずかり、倉も溝口邸内に置かれた。(現在の江本歯科車庫のあたり。)

祇園祭り 田山徳光氏出筆

祇園祭 (通称:コンコンチキリン) 

長洲の代表的な祭り祇園祭は、一名喧嘩祭りともいわれ近隣に鳴りひびいていた。

*喧嘩は町部と浜部によるもので、以下、浜を青町を赤で表記した。

この祭りの起りは、遠くて百五十年前にさかのぼる。

宝暦十一年(一七二八) (萬日記:元永正豊氏蔵) ☚宝暦が正しいのであれば、西暦は1761年、将軍は十代家治

 浜に踊り車出来る

  踊り車入用 銀 二百目余り

  浜中踊り子供 (ちんこ座)

   ・長松・五郎松・お明・おひな・吉 弥・千太三郎

     世話人喜左工門 藤倉

     踊り師匠 瀧江

 

そして同年六月町に操車が出来る。芝居も始まると記されている。

 これが長洲祇園祭りの山車とこの車で踊るちんこ座芝居の始まりである。

祇園祭りの山車は各地にあるが何処の場合でも、飾山車か、踊り車である事に変りはないが、長洲の場合は勿論踊り車であるが、潜在的な目標と期待は、山車と山車をぶっつけ合って喧嘩をする。そして喧嘩相手は浜車町車と決まっている。これはいったい何由だろうか。萬日記を仔細に見ると、その原因らしきものが少しのぞかれる。記録者は浜の粟島宮の祢宜元永左近、文面の浜山車の事は、事こまかに記録しているが、町山車に関しては簡単に捨にしてあって、さほどの関心を示してはいない。それはまだ町部と浜部が一つの村ではなく、長洲村枝村、洲であって別村の感じあり、先住者の町部住民から見て、浜部は新開地で他所から来た者に町部からの次男三男が岐(わか)れ住んだ雑居地域としての蔑視感が潜在的にあり、一方浜部の住民達としては、その反発があり、合せて発展途上の気勢も見せて、先住の町部より先に祇園山車をつくって新興の気張りを示した。

これに対して町部は、先住の貫録と力を示そうと、浜部の車よりも立派な山車をつくって見せて誇った。この様な成立ちが因となって、町と浜との喧嘩車の伝統が出来ていったものの様である。

後に出来た町の山車は操車と記録されている。 操車とは、人形浄瑠璃芝居の事で、浜は子供踊り町は操り人形、此処にも対立競いがのぞかれる。踊り車が喧嘩山車と変様したため、段々喧嘩に適応する工夫して、突っかける芯棒を太く、そして長く棒先鉄の輪を巻いて、相手山車が傷つく様又山車の台の正面に芯棒が当っても痛まぬ為に鉄板を張ったり、喧嘩車の工夫改良は年毎山車を造り替える毎にエスカレートしていった。山車では下町と西浜の山車が最も長い伝統を受継でいるのであるが、どちらも三台目か四台目であろう。この祭が昔の人達にとって余程楽しく張りのあったものとみえて、遠く朝鮮、樺太に出稼に行っていた長洲の青年達は、四月が過れば山車囃が耳について眠れず、この祭りにどんな無理をしても帰って参加したという。

帰れぬと若者宿から電報を打ち旅費の工面をして送る場合もしばしばあったと聞く。 こうゆう事の繰返しが団結を強固にし友情を深めていったものであろう。

 

 

今年2022年のコンコンチキリンは、山車が三台になり、最終日はキリメンサマで揃い踏みして締めくくった。

私と弟のコンコンチキリン

明治になっての長洲会所

島原藩の飛び地豊前御領の代官出張所(通称:長洲会所)は明治五年に廃止されるが、同年11月の長洲小学校の設立と共に学校として、明治九年の正式校舎完成まで利用される。

島崎知徳、島崎律、恒藤警吉郎三人の教師により明治初期の教育が行われる。

左は百年史に掲載される長洲会所があった場所の写真(岩井病院、江本畳屋)だが、小学校秋田店側石段を降り、長洲(賀茂)神社に向かう道の途中右手にあった場所で、その手前に、みたらし団子屋ができ、香ばしいにおいにつられ、足しげく通ったことを思い出す。

 

島崎知徳について

号を拙翁といい、島原藩の武士で代々学者の家に生まれる。藩に仕え、富国強兵・海防論等の数々の建白を行っている。嘉永2年、長洲に来て寺子屋(鶏窓舎)を始めるが、幕末の騒然たる状況下、当時もとも進んだ文化人のひとりである拙翁には藩から帰郷の要請があるが、固辞し長洲に留まる。長洲に製所ができ、西浜砲台ができたのは彼の進言によるもの。寺子屋には、長洲周辺だけではなく日出や中からの入門者もあった。明治5年学制公布に合わせ、長洲小学校の設立に尽力する。

   *明治40年宇佐郡教育会編に

      島原藩台場跡:旧墓地(西浜)の下方に維新前大砲三門をすえつけ海防にそなえていた。

      島原藩鉄山:坂の下に製鉄所があったが維新の時火災ににかかりいっさいが灰に化した。

      とある。

      

 

文化人(大宇佐郡史論)

林玄川(はやし げんせん) 坂の下の人。狩野派の画師で法師の号を許される。

佐々木月破(ささき げっぱ) 西浜の人。佐々木広造という製ろう業者。高並の月弓宗匠に俳句をまなび曙庵と号す。

島 梅軒(しま ばいけん)医師、京都にて医術を学ぶ。頼山陽等と親交す。祖父漑雪は俳人で方翠と号す。

箕浦東伯(みのうらとうはく) 幕末の名士。梅軒と親交ありて長洲に来住す。

色々な記録

「長洲小学校沿革史」

島原藩台場跡:西浜旧墓地に大砲三門が備付られていた。

島原藩鉄山:坂の下に島原藩の製鉄所があったが、維新で焼けてしまった。

「萬日記」

・下町の天満宮:大宰府の勧進により、1757年(宝暦7年)にできる。大宰府から長洲までの道 

 案内は長洲村庄屋溝口忠八郎、御神体奉守護神人は元永左近。その後の社司は元永家。社殿は

 二年後に神光寺の家屋を買って建てられる。34年後の1793年現在の社殿が出来る。施主は大庄

 屋本多新三郎正祥。大工金屋村森栄左衛門、〃森善兵衛、高森都留市郎次。

1760年(宝暦10年)の長洲村家数は320戸と記されている。

 5人/家とすると、人口は1600人。元和の人畜改帳(1622年)からすると140年で900人の増、こ

 の約30年後(1788年の人畜改帳)の人口が2,036人(30年で400人の増)である事から、長洲

 の人口は江戸中期頃急に増加したと思われる。

 

川口番所の小役人と長洲の商人

長洲と柳ヶ浦との往来は、明治18年に小松橋が架かるまでは渡舟での行き来(金屋の瀬と稲荷社)だった。江戸期、稲荷社前に四日市代官の川口番所があって、役人による通行の取調べが行われていた。

この取調べにあたる下っ端役人(天領風を吹かせての威張り散らし)への対応の苦労話!

 

長洲商人の川口番屋苦労話

 長洲西浜通称「へら屋(四ツ谷)」のおばさんが語り伝えた話 こてこての長洲弁にて

「わしが商いに行っていた頃は金屋の瀬を渡船で渡ったところに盗っ人犬のような奴がおって、いつも吠えち喰い付きくるんで、困りよったんで気前よう餌を投げちくれちから、盗っ人犬のじようは尾ばちゆう振って餌を慾しゆがるき餌代を何んぼか、かかるが、お陰で思い切った商売もでき面白りほど儲かったもじゃ・・・」

と語り継がれている。

早、半世紀前、私は中津の高校に通う為、自転車で小松橋を渡り柳ヶ浦駅まで行っていた。当時、長洲側の橋元に警察の派出所があり、時に前に立つお巡りさんが、やさしい声をかけてくれていたような記憶がある。しかし、百年誌の中には、「戦中戦後の物価統制令下、派出所の前を通る商人達にとって、ここの巡査達は、へら屋のおばさんの言う盗っ人犬のような木っ端役人だったらしい。」との記載がある。(笑)

長洲商人の進出

廻船業が多いのは、藩の御蔵米を、江戸、大阪、下関へ輸送する藩指定の廻米船(かいまいせん)がその始まり。廻米船の上荷に便乗して、酢や醤油、味噌を輸送し、その戻荷に各地の産物を積み戻った。戻荷の売捌所として問屋ができ、それを売り歩く行商人も生まれ、次第に発展していく。この廻米船の行き荷、戻り荷の循環が各産業の刺激作用として加工醸造業を盛んにし、さらに各地の情報も早く集まり、商品の出入の回転を速くして、長洲港はこの地方唯一の物資集散地となっていく。

明治新政府も欧米諸国へ追いつけ追い越せの政策によって、各地に工業建設が進められ、その生産エネルギーを筑豊・筑前の石炭の発掘に求めた。そのため福岡県は一大エネルギー産地となり人口も急激に増え、県下各地に炭鉱が雨後の竹の子のようにでき、明治、大正、昭和と一世紀にわたる繁栄を謳歌することになる。これにいち早く目をつけた長洲商人達は、天秤棒1本で乗り込み海産物を売り歩いた。その後、この子孫が福岡県各地で海産物問屋を営むことになる。

 

生活の半分を支えた長洲の行商:「無塩売」と「あいもの売」

長洲の住民生活の半分は行商。明治になり各地で百姓一揆が多く発生したが、漁業及び海産物の行商が生活の主体だった事から、長洲では一度も起きていない。

行商は大別すると二つに分けられる。

無塩売(ぶえんうり):魚市場を起点にした郡内外、二里以内の行商。昭和初期までの、魚の保存方法は、製氷が発達していなかった為、塩を打つか焼くか干すかであった。塩を打つ必要のない範囲での販売であったことからこの名がついた。

  *現在では車に変わったが、50、60年前まではリアカーでの魚の引売りが行われており、魚売りのおばちゃんの 

 「これはうめ~で!ぶえんもんじゃきな~」のセールストークをよく聞いた。

あい物売:近海産品と四十物と言われる北海道、樺太、朝鮮の海産物を福岡を中心に鉄道で行ける範囲の行商。

早半世紀前にもなるが、高校通学用の汽車内で、多くの荷物を持った通称「かつぎ屋さん」と呼ばれるあい物売りのおばちゃん達を見かけた。勿論、汽車は蒸気機関車!

魚市場の変遷:現在のGoogleMAPに上書き

長洲小「百年誌」にある「魚会所変遷図」 この図によると、妻の実家は明治末期までは堀川の中

えび舎と打瀬船

えび舎(水産加工業)の発生は、長洲水産加工業の繁栄の礎であり、多力屋(豊田清平、清三郎親子)の多年の研鑽と開発の功績による。

打瀬網船:通常巾一丈尺(約3m)、長さ八、九間(約16m)くらいの二本マストの木造船。帆は二本のマストを中心に、前後二カ所と中に補助帆を持ち、この帆に風を打たせて網を引きずり魚を取っていた。帆に風を打たせ、瀬に向かって網を引いたこの事から打瀬船と呼ばれていた。

漁獲は、小えびを主に、鱧、車海老、鯛、おこぜその他雑魚。

*打瀬網漁の特徴を詠んだ歌

(打瀬者)殺すにゃ刃物は要らぬ沖の十日も凪げばよい

えび舎:打瀬網でとった小えびを買い取り、大窯で塩ゆでしで干し、干しあがったものをこん棒でたたいて殻をおとしにかけて選別した。

出来上がったものを通称「かちえび」と呼び

主に支那料理に使われることから神戸、長崎の貿易商を通じ、支那、台湾に輸出された。

多力屋の事業拡大:明治12年から15年のわずか4年間に国内34カ所八県にまたがり、えび舎の工場を設立、えび舎事業を確立、拡大した。

また、原料調査と輸出を目的に、北海道、樺太、朝鮮、台湾にも出店した。

明治12年朝鮮釜山支店 中村俊松支店長

明治22年台湾台北支店 吉井治藤太支店長

 

*多力屋、陣容整いこれからという明治26年、清三郎、清平相次いで没す。これに続き、M29年には後継者が次々に早逝、多力屋は傾斜していくが、豊田清平、清三郎親子の残した功績は大きい。

私の知る昭和40年頃の多力屋は、肥料関係の商いをやっており、長洲駅近くに、多力屋の屋号がかかれたレンガつくりの大きな倉庫があったのを記憶している。

 

屋号による長洲商業の発展過程と盛衰

江戸後期天保年間から長洲の商業活動は活発になる。出筆者の田山徳光氏は、商業の発展過程とその後の盛衰を屋号の整理により追及している。百を超える屋号を墓碑や宮座記録により追っているのだが、付記には、埋葬地はもと西浜にあったが、弘化3年と明治7年の洪水にあい、墓石の流出多しと記録され、この流出と濱の人口増加により墓地が狭くなった為、明治27、8年現在の場所に移す。屋号の収録にあたって流出の墓名、移動の際の置き捨て等で完全な墓石文による収録ができなかった。まだ記載されていない屋号が大分あったことと思うが残念である。」

と記されている。これだけでも、大変なご努力の結果であるのに!と感嘆する。

聞き覚えのあるのは、赤線で囲った屋号。特に、出来屋は私が中学の頃、食品販売の店舗を営んでおり、同級生もいた。彼のお兄さんは、中津工業で評判の相撲部員。ある時わがサッカー部のキャプテンと喧嘩となり太ももをノミで刺され、我が家の前の道に点々と血痕が残っていたのを記憶している。その後鉄道事故で若くして亡くなられた。

 

今戸公徳著「ふるさとの想い出写真集」に打瀬船他長洲の漁業に関する数枚の写真があったので、解説と共に紹介させていただく。

 

長洲町の誕生

明治11年11月、太政官布告により郡町村が編成され、宇佐郡は四日市に郡役所がおかれ240カ村を所轄した。郡内戸数は13,600、人口は64,154人であった。各村に戸長がおかれ、戸長の俸給は各村ばらばら(12円~72年)であったが、長洲戸長の俸給は郡内最高の72円だった

明治22年3月町村制が施行され、明治24年4月1日長洲村と金屋村が合併して長洲町が誕生した

この時の長洲町の人口は7,164人であったが、明治31年には7,392人(1,315戸)となった。 平成21年7月:12,086人

長洲歴代町長

 M22 熊埜御堂愿   T4  南 浦吾

  24   〃      7  〃

  28 岡田純一     8 相良律蔵

  29 永田芳太郎   S6 永松慶蔵

  30 本多新三郎    13 南大三郎

  34   〃      14 植木三代治

  38 渡辺壽一     18 高橋常市

  39 永松晋吾     22 網中 勉

  41 南 珍一     24 網中正久

  41 橋本重之     28 高橋常市 (同じ自治区内)

  45   〃      30   〃

            34 竹下留治 (柳ヶ浦ENEOSGS経営)

            38   〃

*歴代宇佐市長

山口馬城次(S42~)→時枝守一(S46~)→永岡光治(S50~)→四井正昭(S60~)→佐瀬裕(H8~)

 〃新宇佐市(安心院町、院内町合併)

時枝正昭(H17~)→是永修治(H21~)

 

*四井正昭氏の長男:誠二君は、長洲中学校の二年後輩。サッカー部で同じ背番号9だが、私とは格の違う名センターフォワード。県大会で優勝を果たし、中津南校、福岡大学へと進学し、福大サッカー部全盛期の一翼を担う。脳腫瘍で若くして逝ってしまった。

明治7年長洲の小字地図

角川日本地名大辞典による明治15年の長洲村小字

上町(花水、横町)本町 中町 下町 坂ノ下 東浜 西浜(西浜ノ東、西浜ノ西)山崎

長洲警察署の歴史

以降、付録として書籍等からの長洲に関するものの転記

わが町長洲の灯籠

あとで記入して

今戸公徳著「ふるさとの想い出写真集宇佐」からの写真

実家で見つけたこの本、昭和58年に発刊、定価4,800円となっており、両親が進んで購入したとは思えない。たぶん、柳ヶ浦(住吉町)に住む叔母が、著者の今戸公徳氏の民潮酒造と親しかったことからお付き合いで購入したものと想像する。長洲に関係するページを紹介させていただく。

 

「ふるさとの想い出写真集宇佐」

長洲の全景

宇佐図書館 ふるさとの思い出写真集より